更 地
更地と聞いて、思い浮かべるものはなんだろうか。
空き地、なにもない場所、はたまた. . . 災害、戦争、疫病. . .
そんな多義的な更地で、ときに大きく、ときに小さな世界のことを、初老の夫婦は記憶の旅を通じて表象します。
劇場に〈なにか〉を充満させるように。 だれかに〈なにか〉を伝えるように. . .
その〈なにか〉はなんなのかわかりません。
でもきっと、簡単にわかることができないものだからこそ、二人はジタバタし、 悩み、苦しみ、笑い合うのでしょう。
ここ数年は「あ、これは歴史の教科書に載るだろうな」と思う出来事の連続でした。
それと同時に、我々が実際に経験したことが誰かのことばによって語られてしまう恐怖のようなものも経験しました。
とてつもなく大きく、脅威的な出来事によって個人の日々、生活、時間は覆われ、隠れてしまったように感じます。
歴史の一部として現代が語られるときも、そうなることでしょう。
その事実を突きつけられると、心のどこかがジタバタしてしまいます。
渦中の中で私たちは芸術を学び、創作してきた。私たちは確かに存在していた。生きていた。本当に。
初老の夫婦を20代の若者が演じることは少々違和感があるかもしれません。
しかし、 現代の社会を生きた上で〈なにか〉を伝えたいという思いは、劇中の夫婦と強力な共通点であり、
私たちであるからこそ、広げられる景色があるかもしれません。
企画・演出 保井岳太
令和六年十二月八日。
劇作家・太田省吾作 「更地」が京都の大学の中にある小さな劇場で上演された。
若い二人の演者が発したことばが、何かのトリガーになって、体のずっと深いところで、
今も消えない違和感として残り続けている。
わたし、ほとんどなかったかもしれないようなことがいっぱい欲しい。
ほとんどなかったようなことがいっぱいあれば・・・ ・・・
なんでもない日のなんでもないことがいっぱいあったことになって・・・ ・・・
そうよ、なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあることになれば・・・ ・・・ ・・・
どうなるんだったかしら。
写真は、その機械的に作られたボタンを押すだけで、現在を現在のまま、物質的に保存し、
その行為が続くことで、今が積み重なっていく。
現代では、誰もがいつでもどこでも写真を撮ることができ、
インターネット上では、幾何級数的な勢いで無数の現在が増殖を続けている。
ある文筆家は、その生涯を終える前に、こう語った。
「時間は、流れてはいるけれども、過去も未来もなく、今しかない」
歴史に覆われて消えてしまいそうな日々を、写真は物質として確かに残し続ける。
「なんでもない日のなんでもないこと」が「あること」になればどうなるのか。
いつか答えに触れられるのだろうか。
それとも答えのない問いとして、ただ積み重なっていくのだろうか。
2025.8.25
保井 伸基